戦後の焼け野原から世界一のバイク大国へ。ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの創業者たちが夢見た未来とは。数百のメーカーがしのぎを削った激動の時代を振り返る。
1945年8月、日本は焼け野原だった。しかし、その灰の中から世界を変える産業が芽吹こうとしていた。戦後の混乱期、人々は移動手段を求めていた。自動車は高嶺の花。そこで注目されたのが、安価で手軽なオートバイだった。
数百のメーカーが乱立した時代
1950年代初頭、日本には200を超えるバイクメーカーが存在した。トーハツ、メグロ、陸王、ライラック、ブリヂストン——今では忘れ去られた名前も多い。彼らは自転車にエンジンを取り付けた簡素な乗り物から始め、やがて本格的なオートバイの開発に乗り出した。
本田宗一郎は浜松の小さな工場で、陸軍の無線機用発電エンジンを自転車に取り付けた「バタバタ」を製造。これがホンダの原点となった。1949年にはホンダ初の本格バイク「ドリームD型」を発売。98ccの2ストロークエンジンを搭載したこの小さなバイクが、やがて世界最大のバイクメーカーへの第一歩となる。
ヤマハ、スズキ、カワサキの参入
1955年、楽器メーカーのヤマハが二輪車市場に参入。精密な金属加工技術を活かしたYA-1は、浅間火山レースで優勝し、一躍注目を集めた。同年、織機メーカーのスズキもコレダ号で参入。そして1960年、航空機エンジンの技術を持つカワサキが本格参入。日本の「ビッグ4」が揃った瞬間だった。
激しい競争の中で、弱小メーカーは次々と淘汰されていった。しかし、この過酷な生存競争こそが、日本のバイク産業を世界最強に鍛え上げた。品質、性能、価格——すべてにおいて妥協を許さない姿勢は、この時代に培われたものだ。
世界への挑戦
1959年、ホンダはアメリカ市場に進出。「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」で、バイクのイメージを不良の乗り物から誰もが楽しめる乗り物へと変えた。この大胆なマーケティング戦略は大成功を収め、アメリカでのバイク販売台数を飛躍的に伸ばした。日本のバイク産業は、もはや国内だけの存在ではなくなった。世界を舞台にした新たな挑戦が始まったのだ。
